#dynamic_Nagasaki

長崎県をDynamic Nagasakiとして見つめ直します。現在おっさんがちゃんぽん食べ歩いています。乗り物、旅行、自転車、ジョギングも!

「ながさき」というところ その1 開港450年 なぜ出島が選ばれたのか、再考しよう

開港450年に浮かれる西の果て

より長崎を再考していくシリーズである。長崎市民の「まちっこ」で長崎愛の強い方々は、狂信的に「長崎こそが一番」という信念、いわゆる「長崎中華思想」でいらっしゃるのだが、少し俯瞰的に、この現象を眺めてみるシリーズである。今回は、当ブログの開港450年企画として、なぜ長崎が選ばれたのか、ここにこのまま西の果ての中心を置いていいのか、ということを考えてみたい。

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平戸や大村は古くから、長崎県の本土において、中心地であった。交通の要衝として、山がちなこのエリアの平坦な農業の中心として、それぞれが栄えてきたのである。

貧弱でハイリスクな長崎詣で、長崎住まい

8月11日から(秋雨)前線の停滞による長雨は、長崎市における交通の脆弱性をあらわにしており、長崎の街に出島が置かれた理由を再確認させ、長崎市を県庁所在地とする長崎県民への長期的な地政学的リスクを顕在化させた。各高速道路、バイパスは通行止めが続き、運輸・流通面で市民生活へのダメージが積もり始めていた。

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浦上エリアを俯瞰する 高層マンションより高く家々は並び、観覧車は見下ろすものである

長崎市の中心部とされる、時津長与から市中心部までの206号線沿線に沿って、長崎市の経済と市域の中心部が広がっており、谷間の街であり、西の果てへのどん詰まりの街である。ここに傍の山の中から、各バイパスや高速道路が伸び、陸橋やトンネル、切り通しによって、道が開かれてきた。長崎市内へのルートは、外部からの細い触手が中心部に触れる程度の心許ない、いつ離れてもおかしくないように繋がっている。のちにあげる二本の旧街道(国道206号線と国道34号線)は緊急時でも大抵温存されているが、長崎自動車道、長崎バイパスは雨で寸断されやすく、山岳部を通るルートが土砂災害の危険にさられる。国道34号線のルートが最後まで残ることが多いが、先の長崎大水害でも、甚大な被害が出たエリアでもあり、どこか心許ない。

鉄道も心許なく、多良街道(国道207号線とそれに沿う長崎本線)はその先で松ノ頭峠を超える長与線、トンネルと切り通しの続く市布経由ともに土砂災害の危険に晒されている。市布経由のルートは戦後のトンネル掘削技術が成熟するまでは完成しなかった。海路は現在では五島方面と野母崎方面が確保されているのみで、江戸時代からの伝統で、中央へ渡るものはない。

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葛折りの峠 松の頭峠の入り口を本川内駅から望む

貿易・産業を維持するために都市としての機能を高めてきたはずであるが、どれも地理学的限界、財政的限界が見えつつあるのが、現在の長崎の中心部である。

オランダ商館はなぜ長崎へ 地政学的考察

オランダ商館は平戸に置かれており、平戸の松浦家の財政を潤す貴重な存在だった。オランダとの交易は、平戸からが主であった。移転前の長崎はといえば、大村純忠によって、ポルトガルとの交易のために開かれた漁村であった。今の新大工エリアより本河内エリアにかけてに山城が置かれ、古い長崎のエリアとして現在も注目されている。このエリアは浸水の被害も少なく、山城エリアは土砂災害の危険があるものの、地盤もしっかりしていることから長崎市内でも数少ない、最も住むに適したエリアである。

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平戸湾 小さな入江に今は漁船と離島行きの船が停泊するのみである

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長崎の丘を右手に左が出島

この長崎はポルトガルに向けての開港協定を結んでおり、これは1570年であった。実際の入港は1571年であり、この年を長崎の開港年としているのだが、通常は協定を結んで〇〇年とすることだろう(トルコライスの日の下からの伝統ある「長崎中華思想」であるからまあ、DJN民の思いつくほどはこの程度である)。この年から450年経つとして、2021年を開港450年とした。

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古くは長崎の古い街は二つの街道により外界と繋がっていたがどちらも海か険しい山に隔てられる陸の孤島の街である。一つ目は長与方面からの206号線に沿って、平戸長崎間を結ぶ平戸街道のルートであり、長与からの海運により大村との繋がりを保ち、これはダイレクトには福岡方面とは接続しない。また長与からはスウィッチバックが必要になるほどの、松ノ頭峠を超えないと諫早方面には抜けられない。二つ目は長崎の人々がロマンとホコリを抱く長崎街道(国道34号線に近いルート)のルートで、西の箱根路とも言われるくらい険しい日見峠を超え、矢上宿を抜け、諫早から大村、彼杵を通り、嬉野に抜けるルートである。中央部に繋がるには、陸路ではいくつもの難所を超える必要があり、海外から軍勢を長崎から陸路で派遣するには困難を極める。

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本河内水源地の横を登っていき日見峠まで上がっていく

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旧日見トンネルを抜けて見えてくる東長崎の風景 遠くには橘湾が見える

海路においても、中央部には遠く離れている。地図もない時代には、入り組んだ複雑な海岸線を持つ、長崎半島から西彼杵半島、西海と呼ばれる針尾から平戸島にかけての海域に加え、大村湾に迷い込んでしまうと、海はあるが自分がどこにいるのかわからなくなるだろう。海からは西彼杵半島に遮られた大村湾や五島灘の厳しい潮の流れ、細長い野母半島の西向きの小さな入江である長崎(長い岬)と隔絶されている。大村湾へ船を回航するには、西彼杵半島をぐるりと回り、西海橋の下の潮流の早いところか干潟のようになっている早岐瀬戸を通過する必要がある。

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夏の気だるい大村湾 長与経由の列車の中からの写真である

このように、今の長崎は、江戸時代初期の感覚では、海からも陸からも畿内や江戸、各藩の領地の中央のそれぞれからみた、地政学的リスクの低い場所であった。陸路では人一人通れるかどうかの難所の峠か海に阻まれていた。海路でも、上海航路のように、大陸に向いて開かれてはいるものの、そこから江戸や畿内、福岡へ進むには、海図もまともにない時代ではナビゲーションも困難である。平戸松浦藩の参勤交代を重ねることで、この辺りの地形の情報は整理されていったのだろう、平戸松浦家には、この地理感覚を楽しむ絵巻が伝わっており、松浦家資料館で江戸への道中が楽しめる。

スペインやポルトガルの海外侵略の進む時代からイギリス・オランダの植民地形成の時代までは、西の方だけを外交政策的に注視しておけば良い時代だった。長崎は、陸の難所に阻まれ、複雑な海岸線の地形の水先案内の困難さから中央への軍事的アプローチが難しいが、大陸方面へのアクセスだけは良い、西の果ての入江であるとして選ばれ、その後も、太平洋側の地政学的問題の出現までの期間、維持されてきた。最も、太平洋を超えた隣国となるアメリカ合衆国のアジア進出は19世紀初頭になり、これまでは外交・戦略的に西側を注視するのみでよかった時代であった。

年に一度、のちに4年に一度となったカピタン江戸参府は商館長以下2名ほどの少人数での上京とし、長崎から船で出るのではなく、わざわざ難所の日見峠周りであったのも、侵略に対するインテリジェンスの一貫であったのかもしれない。

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終わりに

雨の降るなか、長崎へやってくる奇特な方がいたのだが、やはり動いているルートは、かつての日見峠ルートのみであった。県営バスには日見峠・矢上を越えて諫早へ抜けるルートがあり、来るも帰るも、このルートを利用する羽目になっており、今でもかつての長崎街道は生きており、またこの方の奇特さも一層強調されているようであった。

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線路の地盤が悪い長崎本線では、雨天時には徐行運転が続く

都市としての役目が終わり、衰退していくことは世界的に見ても、珍しいことではない。鉄道の開通した頃には、街道沿いの都市においても、その恩恵が受けられなかった中山道の街は衰退していった。北米の自動車産業の中心都市デトロイトは産業構造の変化とともに衰退した。長崎も、長崎港としての役目は本土と長崎の離島を結ぶ航路があるほどに縮小し、三菱重工業を中心とした産業は過去のものとなり、貿易・産業は衰退したフェーズに入った。残る観光産業も廉価で大衆向けの収益構造を維持しており、サステナビリティに瑕疵がある。災害も多発しており、人口流出は県内でも高い部類に入り、そろそろ長崎という都市としての役割の終活を考える時期にきているのではないだろうか。

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