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長崎県をDynamic Nagasakiとして見つめ直します。現在おっさんがちゃんぽん食べ歩いています。乗り物、旅行、自転車、ジョギングも!

長崎大水害の日 1982年7月23日 都市における洪水と土石流

水害とながさき

日本各地では、今年も水害が見られ、雨が降るたびに土石流や線状降水帯、氾濫などという、実感を伴わないような単語が聞かれる様になった。7月中旬にはヨーロッパでも河川の氾濫などから洪水の被害が報道されている。今週には中華人民共和国で起こり、地下鉄で死者が出たといい、かの国のことだから行方不明の方の数も定かではなさそうだ。幸いなことに、昨今の長崎市では、小規模な土砂崩れが年間を通して散見される程度であるが、長崎の人々の間には、1982年(昭和57年)7月23日に起こった長崎大水害の記憶が、いまだに残っている。299名の命が失われた大災害であった。

当時十代から二十代であった人たちの記憶は生々しく、後世に語り継いで行っていただくようにお願いをし、今後、語り部さんとして登場いただくこともあるかもしれない。どこか呑気な、あっけらかんとした逞しささえ感じさせる語り口の方が多く、少しずつ抜粋しながら、当時の様子を振り返る。原爆の語り部もかつてはこうだったのだろう。原爆よりも身近で、来週には、明日にでも我が身で、自分の身を守ることに繋がる教訓がありそうなのだ。人口密集地の都市における大規模の水害は、多くを見ないため、都市在住者にはこの教訓を長崎市から伝えておきたい。

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中島川沿い、匠寛堂先のマンションに刻まれた長崎大水害の氾濫推移

1982年夏と大水害前後の天気概況

夏休みに入ろうとしたか、入った頃の日である。この年の梅雨は、2021年の梅雨のように晴天日の続く、空梅雨であったといい、空梅雨もどこか人々の記憶での長崎大水害を思い起こさせるという。梅雨明けは遅く、梅雨末期の7月10日以降は雨降りの日が続いており、10日間の積算雨量は1000mmを超えた地点もあり、長崎市内でも20日の1日降雨量は243mmであったという。

23日には一時、晴天も覗いたというが、一日小雨程度の降雨を見る程度であった。18時ごろから空を灰色の雲が覆い、夜のように暗くなり急に雨足が強くなったという。飲食店に出勤するもの、帰宅時分で帰り道を急ぐものなどが現れ、急な雨足の変化に、飲食店に駆け込み、雨宿りする者も多かった。長崎市のこの時季の日没は19時半ごろであり、まだ夕暮れでもなく、明るいのが通常である。

のちに記録から判明するのであるが、長崎市都市圏の郊外の長与町では、1時間降雨量187mmを観測し、これは1時間降雨量の日本記録である。長崎海洋気象台(南山手町)では1時間ごとの降雨量は、23日20時までに111.5 mm、21時までに102 mm、22時までに99.5 mmと、3時間雨量は313 mmに達する猛烈な雨であった。

長崎大水害の降り始めから河川の氾濫まで(長崎市街中心部の様子)

崇福寺通りから本古川通りに住居があったという方は、夏休みに入ってすぐで、外を眺めていると滝のような雨となり、みるみるうちに水嵩が増してきたのを見ていた。米屋の在庫を引き上げる手伝いなどをしているうちに、1階部分は水没してしまったという。その時間は2時間ほどであった。

築町付近で喫茶店をやっていたという方は、18時ごろで店をあがって帰ろうかとした頃に、あまりの雨足の強さから、しばらく待っておこうと、店に留まった。県庁坂に面した二階の店舗からは、外の様子がよく見渡せていた。県庁坂は膝下から膝上までの濁流に包まれ、そこを、県庁の丘を超えて帰宅を考えたのか、傘をさしながら必死で登っていき、濁流で諦めたのか戻ってくるものも多かったという。店から、上階へ上がってくるように声をかけ、難を逃れた人も多かったという。人間というのは不思議なもので、このような時ですら傘をさして、上ばかり気にするものであるらしい。今では、マンホール、溝での見えない水の流れが避難時の注意点として挙げられるが、実際に避難となると忘れてしまうだろうから、傘は杖代わりにして、無理をせず、頑丈な建物を上へ上へと逃げることも選択肢に入れておくべきであろう。

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長崎大水害 鉄橋の記念碑

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長崎大水害の中島川の氾濫最高水位を表す

4階にあった飲食店では多くの人が一夜を明かしたという。なんとか建物の一階へたどり着き、店舗で難を逃れた方も多かったという。電話も繋がらず、ラジオでも状況はわからない、停電により電気もないまま、仕事場など外出先での着の身着のまま、一夜を明かすことになった。

各店舗では外の状況がただごとではないことから、台風などへの備えに準じて、米飯を炊きおにぎりとし、蝋燭に火を灯していたという。興味深いのは、それぞれの店舗で同じことを大体同じ時間にやっていたようである。警察や消防に通報したという話はあまり聞かず、電話も繋がらなかったことから、住民の自助で災害を乗り切ったようである。

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現在の中島川

長崎大水害以前は、川沿いの歩道部分、両岸から迫り出すように家々が立ち並んでおり、汚物も垂れ流しであった

悲惨な話は多くを聞かない長崎市街の中心部であるが、いくつか心の痛む話もある。売掛帳を取りに地下の店舗に戻ったため、命を落とすことになったスナックのママさんの話などは、当時、ドアが水圧で開かなくなるなどという知識・知恵がなかったということにもよる。呑気にパチンコ屋で打ち続け、終いには座面にあぐらをかいて水難を逃れたという話も聞く。市街での災害の象徴的なアイコンは崩壊した眼鏡橋であるようだが、これだけでは本質はわからない。

長崎大水害における土砂災害

長崎市街の中心部では水害は水嵩が増して、引いて行っただけのように聞かれる。犠牲者の九割は市の郊外部での大規模な土砂災害、斜面崩壊と土石流の被害により亡くなっている。川平、苦塚、本河内、鳴滝で多くの犠牲者が出ており、斜面崩壊に伴う全家屋倒壊による。一方、大きな被害のみられた東長崎地区では土石流の発生が多く見られており、山を一つ隔てただけで、大きな差異があった。7月10日以降の長雨でぬかるんだ土砂が斜面地での斜面崩壊と土石流を引き起こしており、避難指示等の指示系統が整備されていなかった時代背景もあり、甚大な被害を引き起こしている。

実際にこのエリア(鳴滝)に住んでおり、水害時に市中心部の飲食店に避難していて難を逃れた客がいた。住居は二階であったが、アパートの一階部分は斜面崩壊による土砂で埋まり、翌日トラックでの送迎キャラバンの一行は唖然としたという。

当時長崎市街へ抜ける道は日見峠と長崎バイパス、時津長与からのルートがあった。県の総合体育大会などは中止となったという。矢上を通って、東長崎地区に入ってきたものは、泥と汚物の匂いがバスの中まで入ってきて、周囲は土石流に埋まった家屋が見られ、衝撃的な光景であったという。

岩盤表層に堆積した土砂のさらに上に建てられた家屋は、長崎市の斜面地住宅の特徴であり、建設資材は大抵は木材であり、基礎は深くまで打たないことが多かった。現状ではこの斜面地の住宅は空き家になっている場合も多く、放置された斜面地には行政の早急な対策が必要になる。

鳴滝という地名にシーボルトや鳴滝塾などとどこか歴史のロマンを感じ、山の手の雰囲気をと思う人は多いらしい。水音をたてる滝、水音の激しい急流を意味する地名として名付けられることが多い名称である。江戸時代までは田畑の広がる田園地帯であり、京都洛北の鳴滝にちなんで名付けたというが、元々は住宅地でもないエリアであるから、地名というものには注意が必要だろう。

このエリアで、土砂が流入してくる最中、池の鯉を逃がそうと奮闘した少女の話などは聞いていて、皆で笑うしかないようであるが、今後はさっさと避難するのが良かろうという結論となる。長崎市の中心部と郊外での大きな災害に対する隔たりも肌感覚ではあり、原爆での浦上と旧長崎市の違いくらい大きい。

長崎大水害の翌日以降 中島川にぬかってつっささった乗用車の群れ

「ぬかってつっささっとったとさー」トゲが皮膚に突き刺さったのを指すのと、長崎大水害の朝に見たという中島川沿いの自動車の群れを指すのと以外ではあまり聞いたことがない表現であるが、長崎弁で、突き刺さった様子を同じような単語を繰り返すことで強調しているらしいのである。翌日の朝、1982年7月24日、中島川をてつはし(中央橋のくろがねばし)あたりではと、乗用車がボンネットを下に垂直に立っていたものもあったという。

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思案橋入り口の長崎大水害記念碑

浜町商店街では、盗難・空き巣も多く見られたという。ショウウィンドウの割れた宝石店から宝石を盗み出したという話も聞き、災害時の人間の心理というものはどこか恐ろしいものもある。水害後には水没品を安くで売るようなセールが行われ、二束三文で汚泥を掻き出しながら商売に勤しむ人々もあったという。

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長崎大水害記念碑

周辺自治体などからの支援物資には、野菜や生鮮食料品も多く、市民会館などで市民に向けて配布されていたという。災害復旧で電力などもままならない状況であり、情報の周知はなされず、大体のものは腐敗してしまったのではという話もあり、支援物資の内容の問題は東日本大震災以前からあるようだ。

www.qsr.mlit.go.jp

さいごに

長崎市内だけに関わらず、今後、どこで水害の起こるかどうかなどということは誰もわからない。この都市における洪水と土石流として再度確認をしておいて欲しいことがある。すり鉢状の地形である長崎市街は、降雨のない場合でも、急な水流が起こり、あっという間に道路の冠水が起こり得る。車が浮遊するほどの冠水はないが、箇所によっては起こり得るため、日常的に観察が必要である。

  • 避難先の確認:土砂災害と洪水の両方について確認をする。
  • 避難経路の確認:階段や坂は水流や土石流により使えないことも
  • 非常時持ち出し袋の用意:水、食料は3日分はストックが必要である
  • 地下には入らず、上階へ、標高の高いところへ避難(土砂災害の脅威も考慮して)
  • 情報をもとに避難:Covid-19下では受け入れ人数の制限がある場合もある。
  • 避難先での感染対策も!

長崎市におけるハザードマップは洪水、土砂災害、津波、地震について用意されている。お住まいの各自治体において確認をして欲しい。これから転居で長崎市に転入する場合には、この地図も参考にして欲しい。

https://www.city.nagasaki.lg.jp/bousai/210002/index.html

中島川洪水ハザードマップ

※この洪水ハザードマップでは網引き(2019年3月発生)時の冠水は予測できなかったため、高潮と線状降水帯が重なる際には、更なる対応が必要である。

https://www.city.nagasaki.lg.jp/bousai/210002/p004103_d/fil/tougouban.pdf

https://www.city.nagasaki.lg.jp/bousai/210002/p004103_d/fil/tougouban.pdf

土砂災害ハザードマップ

坂の街長崎であるから、土砂災害とも隣り合わせである。頑丈な建物の2階以上に避難するなど、対象地域の者は確認が必要である。なお、広域の土砂災害に関してはカバーされておらず、当マップでは土石流の開始点の予測は可能であるが、それが合わさった複合的なものについては予測されていない点も注意が必要である。

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活水女子短大下の崖は土砂災害の特別警戒地区に指定されており、道路挟んで反対側がみなとメディカルセンターである

https://www.city.nagasaki.lg.jp/bousai/210002/p025551.html

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